日出学園の歩みINTRODUCTION
創立
市川の菅野の里は、美しい老松に囲まれた閑静な地形に恵まれ、大正初期の頃から多くの文化人が居をかまえていた。これらの人達が菅野にある古刹“御代の院”に因んで「御代の会」をつくり親睦を図ってきた。昭和8年秋、その会の席で青木要吉氏は、「市川町には小学校が一つしかなく、児童たちが溢れているそうだから、昔の寺子屋のような少数主義の独特な小学校を設けては……」と提案され、これが満場の賛同を得た。前千葉中学校長海塩錦衛氏がその企画に当り、翌9年2月、成案なり、早速校名を選定することになった。時恰も待望の皇太子殿下ご誕生の直後だったので『日出学園』と命名するところとなり、校章も波に日の出を配することになった。
学園設立の基礎となる維持会を組織、3月25日発起人会を開催、会則を決定、文部省に設立認可申請、発起人は青木要吉、東興亮、石井信吉、浮谷竹次郎、内田幾助、海塩錦衛、後藤一郎、杉原半、高橋統閭、竹井俊郎、田中友右衛門、中村勝五郎、西久保良行、保々誠次郎、吉田真、稲越房吉、榎本義重、後藤仁助、菅谷為吉、辻勇、中村庄八、広岡助次郎、横田信次郎、吉岡利光、若山孝三の諸氏であった。
(五十音順)
なお、維持会費は一口百円、30余名の会員から約五万円の拠出を得て、更に青木要吉氏からは敷地約千坪の寄付を得、学園設立の中心となり、数名の御代の会有力者の援助が開校準備をスムーズに運ばせた。9年3月31日、文部省から設立認可、直ちに児童募集、その他諸般の準備に着手、校舎は青木要吉氏寄付の菅野町1871番地に建築することとし、園長は国府台高女の平田華蔵校長に依嘱した。児童募集が遅れたこともあり、志願者は僅か10名だったが、平田氏経営の東華幼稚園を移管したので総数80名となった。当時の教職員は、園長 平田華蔵、教諭 高山信司、保母 土屋まさ、五十嵐操、園医 吉田真、各氏の陣容であった。
学園は幼稚園2ヵ年、小学校6ヵ年とし、4月6日授業開始した。なお、教育方針は次の通り。
一、一組の人数を30人以下とし、素質に適応した教育。
一、家庭的雰囲気の中に個性伸長の教育。
一、生活に即した実際的教育。
創立の際、青木要吉氏を援助したのは、海塩錦衛、田中友右衛門、後藤一郎の三氏で、平田華蔵氏は現役校長を買われ初代園長、財務は田中友右衛門氏が担当した。
たまたま、同年11月3日、市川、八幡、中山の三町と国分村が合併、市川市が誕生したのは奇しき因縁ともいえる。
昭和59年発行「日出学園五十年誌」より
沿革
昭和9年(1934) | 日出学園と命名。 初代理事長青木要吉就任 日出学園幼稚園、小学校設立認可される 初代学園長平田華蔵就任 開校(6日) 校訓「なおく・あかるく・むつまじく」制定 | |
昭和16年(1941) | 財団法人日出学園となる | |
昭和17年(1942) | 園歌制定(第3回卒業生寄贈) | |
昭和19年(1944) | 幼稚園と小学校が分離。 菅野駅隣接地に幼稚園園舎移転、竣工 創立10周年記念式典開催 | |
昭和22年(1947) | 日出学園中学校開校 | |
昭和25年(1950) | 日出学園高等学校開校 | |
昭和26年(1951) | 学校法人日出学園と改称 | |
昭和28年(1953) | 軽井沢に「軽井沢山荘」建設 小・中・高の林間学校開校 | |
昭和29年(1954) | ひので会発足 校旗を学園旗と制定 創立20周年記念式典 | |
昭和31年(1956) | 瑞穂会発足 | |
昭和28年(1953) | 軽井沢に「軽井沢山荘」建設 小・中・高の林間学校開校 | |
昭和34年(1959) | 山の幼稚園開始(軽井沢山荘) | |
昭和36年(1961) | 幼稚園 文部省実験学校に指定される | |
昭和39年(1964) | 創立30周年記念式典 瑞穂会独立。臨海学校が勝山から岩井へ | |
昭和48年(1973) | 小学校6年生裏磐梯自然教室始まる | |
昭和49年(1974) | 創立40周年記念式典 | |
昭和55年(1980) | 中学校と高等学校分離(教育課程移行措置) | |
昭和59年(1984) | 創立50周年記念式典 | |
昭和63年(1988) | 中学校と高等学校を統合 | |
平成6年(1994) | 創立60周年記念式典 | |
平成10年(1998) | 文部省特色教育振興モデル事業校に指定される | |
平成12年(2000) | 日出学園ホームページ開設 | |
平成14年(2002) | 高校軟式野球部、関東大会で優勝 全国高校軟式野球選手権に初出場、準優勝の快挙 高校軟式野球部、国体に出場 中学バトントワリング部、県大会で金賞、関東大会出場 | |
平成19年(2007) | 幼稚園 社団法人全国学校図書館協議会・毎日新聞主催の「第12回日本絵本賞読者賞」実践協力園に選定される | |
平成20年(2008) | 新校舎完成(小・中・高) 高校バトントワリング部、ジャパンカップ全国選抜大会で優秀賞 | |
平成22年(2010 | 日出学園の新たな広報紙として、学園通信「日出」創刊(年3回発行) | 80周年記念桜 |
平成23年(2011) | 東日本大震災発生(3月11日)中学・高等学校生徒と教職員合わせて240名が学校で一夜を明かす 幼稚園 未就園児保育「ふたば」始まる | |
平成24年(2012) | 幼稚園の新たな体験学習の試み、「わくドキプロジェクト」始動 | |
平成26年(2014) | 小学校 少人数制教育を目指す「102名体制」に移行創立80周年記念集会(10/31・11/1) | |
平成27年(2015) | 学園公式キャラクター決定 | 公式キャラクター「日和かっぱ」 |
平成28年(2016) | バトントワーリング部 全国大会出場 | |
平成29年(2017) | 高等学校に新たに「特進コース」開設 バトントワーリング部 2 年連続全国大会出場 | |
平成30年(2018) | ICT 推進チーム発足 | |
令和2年(2020) | 第 16 回「情報モラル・セキュリティコンクール」 活動事例部門 文部科学大臣賞受賞 | |
令和3年(2021) | 本学教員第 63 次南極地域観測隊同行者決定 在校生・一般外部の小学生向け南極からリモート授業実施 | |
令和4年(2022) | 中学バトントワーリング部 全国大会初出場 高校バトントワーリング部 全国大会出場(5 年ぶり 3 回目) 陸上部 第 16 回ジュニアオリンピックカップ出場(男子 100m) 水泳部 第 45 回ジュニアオリンピックカップ出場 囲碁将棋部 第 46 回文部科学大臣杯全国高校囲碁選手権大会優勝 小学生 第 46 回ピティナ・ピアノコンペティション全国大会出場 小学校 アフタースクール「ひのキッズ」はじまる 幼稚園 就労支援型預かり保育はじまる | |
令和5年(2023) | 中学バトントワーリング部 2 年連続全国大会出場 水泳部 第 63 回全国中学校水泳競技大会出場 小学生 第 47 回ピティナ・ピアノコンペティション全国大会出場 小学生 第 46 回ジュニアオリンピックカップ出場 |
歴代理事長
初代理事長 青木要吉
慶応3年11月2日生まれ。
要吉は岡山の出身で、明治23年京都同志社を卒業し、暫く仙台の東華学校で教鞭を執りました。その後米国に留学し、エール・コロンビア大学で経済学を修めました。帰国後岡山中学教頭を務め、六高講師、山陽高女校長を兼ねました。その指導はきわめて熱心厳格で、主として英語・修身(現在の道徳)を講じました。教え子の中には、山梨勝之進、星島二郎、大賀一郎、鶴見祐輔、安井誠一郎の諸氏がいます。明治38年実業界に転じ、大正6年市川菅野に居を構えたのを機に、わが国の教育に志を立て、私立学校設立を企図しました。
2代目 青木正雄
明治29年8月12日生まれ。
大正3年東京府立第一中学校を卒業、中央大学に学ぶ。
大正6年沖電気工業株式会社に入社。以後京成電気軌道株式会社、北海炭業株式会社を経て、同13年、父青木要吉の経営する吾妻商会(石炭コークス石油非鉄金属の販売業)に入る。
昭和13年、同社専務取締役となり、同16年社長に就任した。
昭和38年4月6日に亡くなられた。
なお、事業のかたわら、昭和13年以来、市川市の日出学園の理事長として学校教育に尽力された。
極めて孝心に篤く、先考が創立された学園の為に物心両面に亘って多大の犠牲を払ってその発展に専念され、戦時物資の極めて窮乏して居る際、幼稚園を移築したり、更に創意工夫を凝らして軽井沢山荘を建造したり、学園に対する功績は枚挙に遑ないのである。
3代目 畠山蔵六
明治25年7月15日岡山に生まれ、岡山一中に於いて青木要吉の教えを受けた。
大正3年7月東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業して直に大倉鉱業株式会社石炭部に入社し累進して重役となり、その真摯闊達の性格と堅実果断の手腕によって実業界の重鎮となった。その後恩師青木要吉の吾妻商会にも関係して大いに活躍した。
実業家に似合わず産業のほか、科学、教育、社会あらゆる方面に対しても卓越した識見を有し、晩年には自ら産業技術映画協会を作って映画を技術に利用して産業の発達を図り、又上の動物公園、山階鳥類研究所にも理事として関係し、動物殊に鳥類に関する知識の該博なること驚くばかりであった。
動物愛護の精神に燃えて、日本鳥類保護連盟に加わり、又世界野生生物保護基金日本委員でもあった、更に進んで世界人類の平和を祈りつつ、昭和49年2月17日大往生を遂げられた。
岡山出身の東京在住学生の本拠である精義塾の監督として後進学生の指導にも当たっておられた。
昭和29年2月理事に就任。
青木理事長の逝去に伴い、その後任をして理事長に就任した。
学園創立者青木要吉の教えを受け、前理事長とも極めて親密な間柄で、昭和29年以来理事として熱心に学園の運営に参画して居られた。なお、氏は実業家として重きを為し、上野恩賜動物園理事、日本鳥類保護連盟の理事長として教育、社会事業の方面にも活躍して居られる。
昭和43年5月の理事会に提案して承認を得て、青木正雄理事長の嫡男青木登に交代した。
4代目 青木登
昭和2年12月13日生まれ。
東京音楽学校を卒業した後、昭和25年より4年間日出学園中等部の音楽担当の教諭として勤務したことがある。したがって学園の内情、生徒の素質等も知恣しているので実情に即した運営を実行した。
昭和38年5月学校法人日出学園理事就任、昭和43年7月理事長就任
就任早々種々改革意見を出して教職員と隔意なき談合をして意思の疎通を図った。
5代目 青木 貞雄
日出学園 理事長・学園長 1942年東京生まれ。昭和40年に学習院大学政経学部経済学科卒。昭和40年日本航空(株)入社。メキシコ支店長、貨物本部営業部長、貨物本部副本部長を歴任し、平成9年6月より、日本貨物ターミナル(株)社長。平成12年6月より(学)日出学園理事長、平成16年4月より学園長を兼任。市川菅野在住。